澄心寺由来


寺紋

開基京極・佐々木家の家紋を、寺紋と定めました。
境内各所に、この紋が用いられております。

澄心寺由来


御開山様

澄心寺の創立は、1199年(正治元年)と伝えられ、その後、室町時代1471年(文明三年)に、佐々木信綱の流れを汲む、京極家が開基となって、御開山様に「學叟楚文(がくそうそもん)大和尚様」をお迎えし、曹洞宗の禅寺として、この地に開かれました。
開山以来、この荘厳なる禅苑の内に、仏教開祖釈迦牟尼仏、曹洞宗開祖道元禅師・瑩山禅師、「一仏両祖」の教えを、歴代御住職様、多くの檀信徒の皆様と共に、護持して参りました。この地には、五百五十年に渡る歴史と訪れし人々の尊き願いが満ちています。

広大な境内


葵の御紋

澄心寺は開山以来、武家の帰依厚く、武田信玄公や、江戸幕府の歴代の将軍様より、多くの朱印地を賜り、およそ四十二町(約十二万坪)に上る、広大な境内地を誇る寺院となりました。澄心寺を囲む、緑豊かな自然が、訪れる皆様を優しく迎えます。
法堂内部の御本尊様の上部に、朱印地を賜ったことを示す「葵の御紋」が刻まれています。

江戸の大火と明治の蛇抜け


柱下に残る爪痕

1700年(元禄十三年)、山火事によって、威容を誇った伽藍の全てが消失。
その後、1752年(宝暦二年)に現在の法堂を、天保年間には現在の客殿が再建され、新たに境内が整備されました。
しかし、1868年(明治元年)に、「闇沢の蛇抜け」と呼ばれる、土石流に襲われ、法堂の床上四尺(約1,2m)が土砂に埋まり、法堂、客殿を除き、禅堂、宝蔵、大庭園など江戸時代に再建された建物はことごとく流されてしまいました。この土砂の跡が、現在の法堂の柱に残っています。

昭和の大改修と平成の晋山結制


新たな庫裏

昭和に入り、茅葺きであった屋根を、銅板に、また歴史の経過によって、歪んでしまった建物を補修・改修し、加えて、歴代の御住職様、檀信徒の皆様の御位牌を安置する位牌堂が建立されました。
平成二十二年には、三十二世住職の晋山結制が厳修され、合わせて、庫裏の建立、境内・建物の改修が行われ今日へと至っております。

末山寺院の創立


歴代御住職様の御位牌

五百五十年、三十一代にわたる御住職様の中では、二世「春越青斧」大和尚様が、箕輪町長岡の「長松寺」を、七世「了山宗頓」大和尚様が、伊那市手良中坪の「清水寺」を、十世「江南鳳策」大和尚様が、伊那市手良の「真宗寺」を、十一世「山渓長雪」大和尚様が、伊那市手良野口の「常光寺」をそれぞれ開山し、江戸時代以降、本寺・末寺制度が確立されるようになりました。